【明治維新】情の赴くまま生き情に殉じた「維新の英傑」西郷隆盛の真の姿

その他

こんにちは。badass tigerです!

維新の三傑といえば

木戸孝允

大久保利通

そして西郷隆盛です

その中でも、西郷隆盛は1番有名で人気がある人物です。

人気の秘訣は、勝海舟との対談で江戸を戦火から救った事や西南戦争で自分が全てを飲み込んで死んでいったその悲劇性も大きいです。

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そして、その人柄のイメージが

大きく人を包み込んでくれるような温かさがある。

そんなところから、歴史上の人物の中でも上位の人気を誇る西郷隆盛です。

しかし、その真実は自分の感情の赴くままに生きてきた男だったのです!

今までの西郷隆盛をみてきた視点とは、また違った角度から今回は見ていきたいと思います。

今回の記事は

・ずっと知らなかった西郷隆盛の真の人間性が分かる

・明治維新がより面白くなる

・西郷隆盛がますます好きになる

そんな記事となっています。
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西郷隆盛の人気の秘訣

西郷隆盛は1828年に薩摩国(鹿児島県)に生まれました。

幕末は薩摩藩の代表として、政治の舞台で大活躍しました。

そして、大政奉還後は倒幕戦争を起こし幕府を倒すために挑発行為を行い、戦いを仕掛けます。

そんな努力もあってか、戊辰戦争が始まります。 

錦の御旗と、圧倒的な武器と兵力を持つ西郷率いる官軍は旧幕府軍を打ち破り見事に勝利します。

そして、新政府の中心となった西郷は、版籍奉還や廃藩置県など様々な改革を行なっていきます。 

しかし、明治6年に征韓論を唱えた西郷はその論争に敗れて故郷鹿児島へ帰ることとなりました。

その後、不平士族(旧武士)の反乱の誘いを数々受けますがそれを拒否。

また、故郷鹿児島でも不平士族がたくさんいたので彼らに学びの場と活躍の場を与えるべく私学校を設立しました。

そして、自身もこの私学校に大きな影響を与えるも直接学校には関わることなく悠々と暮らしていました。

しかし私学校は、鹿児島県内で大きな力を持つに至り、さながら独立国のような様相を呈してきました。

西郷隆盛
西郷隆盛

おはんらがその気なら

オイの身体ば差し上げ申そ

新政府もこれを見過ごせず、西郷に対して挑発を繰り返しついに西南戦争へと突入します。

最初は、善戦した西郷軍でしたが次第に押されていきついに1877年9月24日に自害して果てることになりました。

西郷隆盛
西郷隆盛

晋どんもうここらでよか

これまで簡単に、西郷の人生をたどっていきました。

西郷の座右の銘に

敬天愛人

というものがあります。

その言葉の意味は次の通りです。

「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」

西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より

天を敬い、人を愛する素晴らしい精神ですね!

この精神こそが、西郷隆盛の現在に至る人気を現しています。

そして、その気持ちで相手に誠心誠意接していたので部下からは慕われ、上司や同僚からは信頼られて今の「西郷さん」のイメージが作られました。

しかし、実際の西郷隆盛はおおよそ「敬天愛人」からはかけ離れた人生を送っています。

討幕の目的を果たすために、手下を使ってテロ行為を行っています。

また、その時テロ行為をさせたうちの1人、相楽総三率いる赤報隊には無実の罪を被せ処刑しています。

相楽総三の名は、るろうに剣心の左之助の師匠として有名なのではないでしょうか?西郷隆盛は、史実ではその汚名を着せた張本人なのです❗️

ちなみに相楽総三は左之助の師匠として、るろうに剣心にも登場します!


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また、人の好き嫌いが激しく好きになった人には一生懸命に尽くします。

一方で嫌いになれば、とことんまで嫌い抜きます。

そのため、人によっては絶賛する人もいれば、ものすごく酷評している人もいます。

それはやはり、西郷の真実は「自分の感情」の赴くままに行動していたからではないでしょうか?

次項では、西郷隆盛の感情が昂りすぎてやらかしてしまった行動を3つご紹介します。

感情が先走りやらかした行動3選

西郷隆盛は、見た目とその人柄からおおらかで人に優しく面倒見がいいというイメージがあります。

しかし、このイメージは彼の一面しか現していません。

実は、彼は人の好き嫌いがとても激しくしかもそれを隠さず感情の赴くままに動く人間でした。

それで数々のトラブルを巻き起こしています。

その中から今回は3つご紹介していきます。

①月照と心中事件

西郷隆盛は、好きになったらとことん尽くす人間であるということは述べてきました。

その中でも、生涯の師と仰いだのが島津斉彬です。

島津斉彬

西郷は、島津斉彬に引き立てられまた島津斉彬も西郷の性格をよく見抜き、見込みもあったので深い信頼関係で結ばれていました。

そして、斉彬の人脈から諸国の数々の有能な人材と会い知己を得ていきます。


そんな中、水戸藩の藤田東湖に会い国事について指導を受けました。

また、越前藩の橋本左内の見識には驚いたそう。

こうして、斉彬の元で西郷隆盛はその才能を発揮させ、充実した日々を送りました。

しかし、そんな幸せな日々も長くは続きませんでした。

1858年には、大老井伊直弼が就任すると、状況は一変します。

あの安政の大獄が始まったのです。

そんな中、悲劇が起こります。

島津斉彬が急死したのです!

その一報を京都で聞いた西郷は、絶望し殉死しようとします。

しかし、傍にいた清水寺の僧、月照に止められます。

月照は、清水寺成就院の住職で尊王攘夷に傾倒し、その仲間たちとも親交が深い人物でした。

この時巻き起こった、将軍継承問題では斉彬と同じ一橋派のグループに属し、井伊から睨まれていました。

その為、西郷とも親交が深い人物だったのです。

西郷は月照に深く感謝したことでしょう。

その後、安政の大獄が起こり一橋派の弾圧が本格化すると、月照も追われる身となります。

その為、西郷は何とか月照を助けようと故郷薩摩で匿うことにします。

しかし、薩摩は島津斉彬が亡くなり体勢と方針が変わっていました。

藩としても月照のような厄介者を匿い幕府に睨まれたくありませんでした。

したがって、藩は月照の受け入れを拒否して隣の日向国(現在の宮崎県)送りを命じます。

これは暗に、日向国で月照を殺害するという意味が込められていました。

月照を救えないと感じた西郷は絶望しました。

西郷隆盛
西郷隆盛

月照殿一人死なせる訳にはいかん

オイもご一緒しもんそ

と言ったかは定かではありませんが、西郷は月照と共に死ぬことを決意しました。

そして、鹿児島の錦江湾から月照と共に身を投げます。

月照はその時に亡くなりましたが、西郷隆盛は奇跡的に命が助かります。

自分の命の恩人を救えなかった西郷は深く悲しんだことでしょう。

大局を見ると、月照は助けるべき人物では無かったはずです。

しかし、個人的に仲の良かった月照を西郷は命をかけて守ろうとしました。

そんな情に熱い部分が人気の秘訣です。

しかし、大局を見ずに感情の赴くままに引き起こした薩摩藩からしてみれば厄介な大トラブルでした。

西郷は、その後死んだことにされ名前を変えて奄美大島へ潜伏させられることとなりました。

②国父を面前でけなし、命令を無視する

その後、大久保利通たちの助けもあり西郷は藩に戻ることができました。

しかし、国父・島津久光のことを西郷は大嫌いでした。

島津久光

島津久光は島津斉彬の腹違いの弟です。

父・島津忠興が久光の母、お由羅の方を溺愛していたこともあり久光に跡を継がせようとしていました。

そこで斉彬派と久光派が対立して抗争が起こります。

これをお由羅騒動といいます。

この時は、幕府が介入して忠興が隠居し斉彬が藩主を継ぐことで話は収まりました。

しかし、斉彬と久光の仲は良かったみたいでむしろ久光は斉彬のことを慕っていました。

したがって、斉彬死後、久光は藩主・忠義の後見役(国父)として実権を握りますが兄・斉彬の方針を基本的には踏襲していきます。

しかし、西郷はそんな久光が大嫌いでした。

それは、先程述べたお由羅騒動に端をはしています。

お由羅騒動で自害した人物の中で赤山靱負という人がいます。

彼が自害した時の介錯人が西郷の父だったそうです。

そして、その血染めの死装束を見た西郷は、斉彬の藩主就任を深く望んだと言われます。

この騒動は、斉彬死後まで尾を引いていくことになります。

小説家の海音寺潮五郎によると、この問題は斉彬の襲封後も尾を引き、斉彬の急死は「『斉彬の蘭癖が藩を潰す』という懸念が現実になる」と見た斉興による毒殺であり、久光が毒殺に関与していると西郷が考えたのが久光と西郷の確執の原因であるという。

Wikipediaより引用

斉彬と久光の仲からそんな事はあり得ないはずなのに、こう思っていたということは西郷の思い込みであったと言えるでしょう。

その為、西郷は感情的に久光を嫌い抜き初対面の時とんでもないことを口にします。

「あなたは”地ゴロ”だから京に行っても何もできない」

ちなみに地ゴロとは田舎者という意味です。

普通は身分が上の人に特にこの時代そんな事は言えませんし、その場で斬り捨てられても仕方ないくらいの暴言です。

しかし、さすが久光そこは自分の怒りを抑えて自身の上洛に向けて西郷に下関で待つように指示を出します。

普通の人なら国父として実権を握る久光を怒らせているのですから下関で久光を待つはずです。

しかし、そこが西郷が大物たる所以。

何と約束をすっぽかして久光の到着を待たずに京都へ向かってしまうのです😅

西郷は、下関で京都の緊迫した情勢を聞いて船で大坂へ向かい過激派浪士たちの京都焼き討ちと挙兵の企てを阻止しました。

やったこと自体は、素晴らしいものでしたが完全な軍規違反です。

命令に背いた事に激怒した久光は、西郷に徳之島へ流罪を言い渡します。(その後更に条件の過酷な沖永良部島へ流罪)

本当なら、腹を切らされても文句は言えないくらいの罪ですが久光もさすが一角の人物、死罪にせずに流罪で済ませました。

西郷隆盛
西郷隆盛

京都が大変なのに田舎者の

命令なんかどうでもいいわ

西郷は、くらいの気持ちだったはずです。

この時も、久光憎しの感情が重大な命令違反を犯した理由ではないでしょうか?

③征韓論

その後、西郷隆盛は許され薩摩藩の中心として大活躍したことはよく知られています。

そして、明治維新を迎えて西郷は新政府の中心となり活躍します。

そんな中、明治4年に政府の中心の岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らが使節団を組み、条約改正のために海外へ旅立ちます。

その時に西郷隆盛ら留守政府に自分たちが不在の時に重大な改革を行わないという約束をしていました。

しかし、留守政府は管制、軍制の改革を次々と行なっていきます。

これらの改革は財政的に大きな負担を強いることになり、各省庁の対立が収集不可能となり留守政府の責任者の三条実美は使節団の帰国を求めます。

そんな中、明治政府と李氏朝鮮との対立が深刻になっていきました。

国内では、武力を持って修好条約を結ぼうという動きが出てきます。

これを征韓論といいます。

その時、西郷は兵を送ることに反対して自らが使節として朝鮮に行くと言い出しました。

西郷隆盛
西郷隆盛

朝鮮は必ずオイを殺すだろう。

そうなれば戦ば持ち込めるでごわんど

そして、強引に岩倉使節団が帰る前に強引に自分を遣使に出せと三条実美に申し出ます。

あまりの迫力に三条は承諾します。

しかし、岩倉使節団が帰国すると状況が一変します。

岩倉たちは、内政を重視し、今は朝鮮とことを構えたくなかったので西郷の遣使に反対します。

そして、遣使が延期となりました。

収まらないのが、西郷です。

その事にキレて職を辞して鹿児島へ帰ってしまいます。

そして、西郷を慕う鹿児島の後輩、仲間たちも次々と職を辞して鹿児島へ帰ってしまう大事件となります。

その数何と600名❗️

西郷が殺されるのが見えているのに、朝鮮に行くと言ったのは、最後の花道を飾るためと言われています。

確かに、日本の政情もまだ安定しない中外国と事を起こされるのは岩倉や大久保利通からして見たらたまったもんじゃありませんね。

大久保利通
大久保利通

おはんはいつも大事な時にオイに

全てを丸投げしおってからに

と大久保は愚痴ったと言われています。

確かに、島津久光と対立した時も大久保は西郷の復帰のために骨を折っています。

彼は、いつも西郷の尻拭いをさせられて愚痴りたくなる気持ちも分かりますね。

最期も情に赴くままに斃れる

鹿児島へ帰国した西郷隆盛でしたが、そんな西郷を不平士族たちは放っておきません。

不平士族とは、旧武士階級で明治維新後武士は次々と特権を失いました。

そして、徴兵制になり軍隊も武士のものではなくなり活躍の場も失いました。

時期は前後しますが、明治9年には廃刀令が出て武士の命でもある刀も奪われることとなったのです。

そう言った時代の変化の中で、旧武士達の明治政府への不満は次々と高まっていきます。

そして、各地で起こる士族の反乱。

その反乱軍達が西郷を放っておくわけがありません。

次々に西郷に協力の要請が来ます。

しかし、西郷はことごとく断ります。

そして、反乱軍は次々と鎮圧されていきます。

ただ地元の鹿児島県士族だけは放って置くことができませんでした。

鹿児島士族活躍の場を与えるために、私学校を設置して砲学、銃学を学ばせ、その教師には自身の腹心を置きました。

しかし、私学校の士族達の力が増していわば鹿児島県が独立国のような形態を示してしまったのです。

それを、政府は危険視しました。

大久保利通は、私学校の人々が西郷隆盛を担ぎ出すと厄介だということで偵察を送ります。

そこで、捕まった人物が

「西郷どんをシサツする」

と言った事で私学校党達は憤慨します。

このシサツという言葉は「視察」するという言葉と「刺殺」を勘違いしたという説もありますがとにかく西郷先生を守らないとということでまとまったのです。

こうなってきたら、もう西郷でも収めることが不可能な所まできました。

私学校党が、政府の弾薬庫を襲うという事件が起こりました。

西郷隆盛
西郷隆盛

おはんらなんちゅうことを

したでごわすか!

と激怒したと言われますがもう事ここに及んでは、西郷も起つしかないと覚悟を決めたようです。

私学校党も元々は、西郷を慕って下野した面々、愛情もあります。

もう、死ぬのを覚悟で自分を全て捧げて彼らのために決起することを決意します。

負けることは大方分かっていたはずです。

しかし、もう彼らの意地に付き合い共に死ぬことこそ彼ら自分を慕ってきた仲間に報いる道と覚悟します。

そして、西南戦争が勃発しその最期へとつながります。

おそらく、自分が死ぬ事で不平士族達に時代の流れを感じさせて決起をさせないようにしたのかも知れません。

その最期も、仲間への情から動いたものでした。

しかし、その悲劇性も現在に至る西郷人気の秘訣なんです。

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人間くささが魅力

西郷隆盛といえば、その温かく包み込むような包容力が魅力です。

しかし、実は人による好き嫌いがとても激しく高く評価している人もいれば酷評している人もいます。

西郷隆盛を好評価している評価は次の通りです。

「身分は低く、才智は私の方が遥かに上である。しかし天性の大仁者である」

島津斉彬

Wikipediaより引用

天性の大仁者とはいいことを言っています。

仁者とは博愛の人、情け深い人という意味です。

一度気に入った人物には、とことん情に深い西郷を上手く表現した言葉ですね。

「西郷の勇断は実に畏るべきことに候。世界の豪傑の一人の由、外人皆敬慕せりという。兵隊の西郷に服するや、実に驚くべきなり。英雄なり。仁者なり。この西郷を見出せしは、我朋友島津斉彬なり。斉彬は深く西郷の人となりを見抜き、後に大事業を起こすべきはこの人なりと思いこめられ、庭口の番人に申し付けられたり。庭口の番人とは余りおかしく存じ候へども、島津家にもこの例なきよし。斉彬は江戸中の景況、また天下のため尽力周旋秘密のことに西郷を用いいれ、近習小姓も知らず、庭口より直ちに出でて内々言上する役なり。これは島津斉彬公の工夫なり。慶永に斉彬公面唔の節、『私、家来多数あれども、誰も間に合ふものなし。西郷一人は、薩国貴重の大宝なり。しかしながら彼は独立の気象あるが故に、彼を使ふ者、我ならではあるまじく』と申し候。『その外に使うものは有るまじ』と。果して然り。実に島津君の確言と存じ候」

松平春嶽

Wikipediaより引用

島津斉彬の盟友越前藩主、松平春嶽のこの発言。

後に大仕事をする事を見抜いてますし、それを見出した島津斉彬のことも褒めています。

しかし、その人物もよく見抜いていて使う人によっては扱えないということも述べています。

島津斉彬はこの難しいところのある西郷隆盛という人を上手く操縦したという意味でも名君だったことが伺えます。

「維新の三傑といって、西郷、木戸、大久保と三人をならべていうが、なかなかどうしてそんなものではない。西郷と木戸、大久保の間には、零が幾つあるか分らぬ。西郷、その次に○○○○といくら零があるか知れないので、木戸や大久保とは、まるで算盤のケタが違う」

板垣退助

Wikipediaより引用

板垣退助は、西郷隆盛に対して最大限の評価をしています。

維新三傑の中でも、西郷と他の2人では差がありすぎるという最大限の評価です。

これは、戊辰戦争までの経緯で薩土密盟で仲間として共に討幕へ向かった仲だということもあると思います。

板垣と西郷は、盟友ゆえに西郷も板垣のことを好きでそういう接し方をしている事が容易に考えられます。

板垣は、西郷の死後自由民権運動を指導して、違う分野で士族の救済へ力を注ぎます。

戦いではなく、違う分野で西郷の遺志を継いだ人間であるとも言えるでしょう。

「一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加わり、去るべくもあらず。今は善も悪も死生をともにせんのみ」

増田宋太郎

Wikipediaより引用

増田宋太郎は、中津藩の藩士で西南戦争で西郷軍にて西郷と共に戦いました。

この言葉は、西郷の仲間に対する愛情の向け方がよくわかる言葉です。

その他、大隈重信や木戸孝允そして、福沢諭吉などは西郷に厳しい評価も与えています。

そして、表裏がなく政治家には向かないという評価もたくさんありました。

「西郷は兎角相手を取る性質がある。これは西郷の悪いところである。自分にもそれは悪いということを云っていた。そうしてその相手をばひどく憎む塩梅がある。西郷という人は一体度量のある人物ではない。人は豪傑肌であるけれども、度量は大きいとは云えない。いわば度量が偏狭である。度量が偏狭であるから、西南の役などが起るのである。世間の人は大変度量の広い人のように思っているが、それは皮相の見で、やはり敵を持つ性質である。とうとう敵を持って、それがために自分も倒れるに至った。どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしくてたまらないようであった。西郷の人となりは、今申す通り狭いが、人と艱苦を共にするというところが持ち前で、古人のいう士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起などがそうであったという。士卒が手傷を負えば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ人物で、自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。何でも下の者を己れの手足のように使い廻すのが、一生の手際と思っているから、自分も努めてする。幕府を倒すのもそれから起っている。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれほどの事は出来はしないであったろうが、薩藩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があったが、一旦自分の敵と見た者は、どこまでも憎む。古の英雄豪傑も皆そういうものだろう」

重野安繹

Wikipediaより引用

この発言が、一番西郷の本質を現しているのではないでしょうか?

重野安繹は、奄美大島に流罪になった時に西郷隆盛と出会い意気投合します。

西郷隆盛は、好きになった人物にはとことん尽くすが、嫌いな人物はバッサリ切り捨てる。

実は、これこそが彼の真実なのではないでしょうか?

まさに西郷隆盛は、感情で動く人物なのです。

最後にこの人の西郷評でこの項を閉めます!

「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しく叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く。もし馬鹿なら大きな馬鹿で、利口なら大きな利口だろう」

坂本龍馬

Wikipediaより引用

坂本龍馬は、いっとき西郷隆盛のところに居候していました。

この言葉も、西郷隆盛の本来の性格を上手く言い表しています。

島津斉彬島津久光の関係性でもよく分かりますね。

久光も、2度目の流罪後には西郷隆盛の性格を理解して個人的な恨みを消して上手く使いこなしたところは流石人物ですね。

人によっては、毀誉褒貶激しい人物であることを坂本龍馬なりの表現で上手に言い表しています。

まとめ

今回は、西郷隆盛という有名人を違う視点から詳しく見てきました。

西郷は、その人気ゆえ少しでも批判的な見方をするのがはばかれます。

しかし、好きになった人物にはとことん尽くし、嫌いになったり自分に利が無くなるとバッサリと切る冷酷さもあります。

その、好き嫌いということで感情的に行動することこそ彼の本質です。

それは、彼の人生を通してずっと変わりませんでした。

ただ、そういう人間臭いところがまた西郷隆盛という人物の魅力を引き立てているとも言えるでしょう。

それでは、ごきげんよう!

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