こんにちは。badass tigerです。
前回、大河ドラマで取り上げて欲しい人物を幕末時代に限定して10人取り上げました。
大変好評だったので(ホントに?)第2弾を行います。
今回はみんな大好き戦国時代編です。
今回の記事は
・戦国時代が好きな人
・あまり知られていない武将を取り上げる事で新たな発見につながる
・主要な人物を、家臣などの別の視点から見る歴史を学ぶことができる
そんな記事になっています。
そして、今回の記事は完全に僕の主観で選んでいるのでご了承ください❗️
それでは早速、ベスト10行ってみましょう。
第10位 細川忠興
第10位は、細川忠興です。
細川忠興は、後の熊本藩の基礎を築いた人物です。
また、妻のガラシャこと玉子とのことは彼を語る上で欠かせません。
ガラシャこと玉子は、明智光秀の娘で絶世の美人として有名でした。
そのため、ガラシャの事をとても愛していた忠興は、嫉妬のあまり様々なトラブルを巻き起こします。
その為、ガラシャは離婚を考えるようになりました。
その後、関ヶ原の合戦の折東軍についた忠興を西軍に寝がえさせるために、石田三成がガラシャを人質に取ろうとしますが、人質に取られるくらいなら死ねと忠興から指示を受けていたガラシャ一行は死を選びました。
その死は、大変壮絶なものでした。したがって三成は東軍の家族を人質に取る作戦を諦めたくらいです。
元々、忠興という人物は気が短く敵に容赦しない苛烈な性格だったと伝わっています。
ガラシャの死の時に、逃げ延びた嫡男・忠隆の妻にブチギレて離縁を命じました。
しかし、それを嫡男・忠隆は何と拒否してしまいます。
その為さらにキレた忠興は忠隆に対して廃嫡(簡単にいうと勘当)を命じました。(後に和解をします)
さらにその後、後継は三男の忠利に決めましたがそれを不満に思った二男・興秋が大坂の役の時に何と大坂方に付いてしまいます❗️
そして、大坂の役の後敗れた興秋に対して、徳川家康は命を助けようとしましたが父への当てつけで敵方についた事でブチギレていた父・忠興はそれを許さず自害を命令しました。
自分の家族といえど決して許さないそういう厳しさを持った武将でした。
その他、自分の虫のいどころが悪い時に感情に任せて、家臣を手にかけたこともあるそうです。
しかし、そんな短気なところがある裏には、巧みな政治手腕を誇り肥後細川氏を現在まで続く礎を築きました。
細川護煕元総理は子孫にあたります。
また、父幽斎は一流の文化人としてとても有名でしたが忠興も負けず劣らず優れた文化人でした。
その苛烈な性格と、文化人としての性格そのギャップに魅力を感じたのでランクインしました。

第9位 北条氏康
第9位は、北条氏康です。
北条氏康といえば今川、武田と三国同盟を結んだ事で知られています。
そして、上杉謙信に攻められながら巧みな戦術で城を守り抜きました。
北条氏康のハイライトといえば河越夜戦です。
氏康が家督を継いだ後、これが北条を潰す好機と、扇谷山内両上杉氏と古河公方連合軍が大軍を持って北条方の河越城を包囲します。
それを、氏康は機転を持って攻略します。そして、敵将上杉朝定をはじめ数々の諸将を打ち取ります。
この戦いを契機に、関東における北条氏の覇権は固まりその名を轟かせることになります。
その後は、三国同盟とその後の桶狭間の戦い以後の三国同盟の破棄など周囲の情勢に翻弄されながらも勢力を拡大していきました。
また息子・氏政との汁かけのエピソードも取り上げて欲しいところです。
2016年の大河ドラマ、真田丸では高嶋政伸さん演じる北条氏政が「食べたい分だけ汁をかけるのがわしの流儀じゃ」というシーンがありました。
そのシーンの元となったのが、氏政が幼少の頃、ご飯に汁を2回かけて食べたのを見た父・氏康が「飯にかける汁の量を一度に量れないやつが家督を継ぐとなると、北条家は終わりだ」とはらはらと涙を流したというものです。
このシーンも大河でやって欲しいですね。

第8位 本多正信
第8位は、本多正信です。
本多正信は、徳川家康の家臣でその最期までそばに寄り添って支えます。
しかし、本多正信は最初は、家康の領国三河で起こった一向一揆の指導者で家康とは敵対関係にありました。
そして、敗れ流浪の旅に出ます。
その後、大久保忠世のとりなしにより鷹匠という身分から復帰します。
その後は、着実に家康の信頼を得ていき徳川幕府の中枢で政治を行い、汚い部分を担って誰もが嫌がる、泥をかぶる役割を背負います。
家康とは、阿吽の呼吸で家康は正信のことを友と読んでいたそうです。
家康を主人公としたり、秀吉信長目線で家康が語られたり、敵役目線としての家康そういったものは大河ドラマで取り上げられましたが、家康の側近の本多正信視線から見た徳川家康というのも興味深いと考えランクインしました。

第7位 佐竹義重
第7位は、佐竹義重です。
佐竹義重は、常陸現在の茨城県一帯を治めていた武将です。
通称鬼佐竹、鬼義重と呼ばれるくらい戦に強い武将でした。
父の跡を継ぎ、常陸統一という佐竹氏の悲願を達成した名将です。
更に、全盛期には東北地方の会津辺りまでを支配下に収めます。
しかし、南からは北条北からは伊達と大きな勢力に挟まれ苦戦を強いられます。
独眼竜政宗に出てきて、いかりや長介さん扮する鬼庭左月が壮絶な討死をした人取橋の合戦を佐竹氏側から今度は見ていくのも興味深いですね。
また、彼は時流を見る目も確かで伊達政宗に北から攻めてこられ、会津を取られたところで小田原合戦が起こります。
いち早く豊臣秀吉に誼を通じていた義重は、本領常陸54万石を安堵されます。
そして、関ヶ原の合戦の時には息子・義宣が石田三成との仲から西軍に与する事を訴えますが、義重は東軍が勝つ事を見越してそれに反対します。
それ故か、関ヶ原において佐竹氏は全くの傍観者と化します。
それが家康には気に入らなかったのか、改易処分を考えます。
しかし、そこでも義重の必死の取りなしのおかげで出羽久保田20万石(今の秋田市の辺り)に移封ですみました。
合戦にも強く、政治力にも長けた佐竹義重、人気の面ではイマイチですが、武田信玄や上杉謙信などと引けを取らない名将です。

第6位 京極高次
第6位は、京極高次です。
京極高次は、若狭国の大名で実は関ヶ原の戦いのキーマンの1人です。
高次は、妹と妻のおかげで成り上がったと言っても過言ではない武将です。
しかし、だからといって無能な人物ではなく居城の大津城において西軍1万5千の大軍を足止めし関ヶ原の主戦場へ行かせなかった事でもよく知られています。
そして、その功により若狭一国の国持ち大名となりました。
そもそも、京極氏は室町幕府で侍所の別当を務める特別な4家のうちの1つでした。(四職)
しかし、応仁の乱以降衰退してしまったのです。
その京極氏を見事に再興した高次の働きは素晴らしいと言うしかありません。
ちなみに、妹・竜子は豊臣秀吉の昨日となりたいそうな美人としても有名だったそうです。
秀吉と敵対していた高次を救ったのは妹竜子だと言われています。
また、妻は浅井長政とお市の娘・初です。
あの有名な浅井三姉妹の次女です。
この華麗なる女性たちに囲まれながらも武勇と意地を見せ、名門京極氏を見事に復活させた京極高次。
その、京極高次を取り上げるのもまた新たなる視点の大河ドラマで面白いと思います。

第5位 島津義弘
第5位は、島津義弘です。
島津義弘は、彼を含む4人の兄弟と共に薩摩現在の鹿児島県から九州を統一すべく戦っていました。
後ろから支える兄・義久とは対照的にいつも最前線で戦ってきた義弘。
そして、秀吉政権下でも朝鮮の役で大活躍をします。
鬼石曼子(オニシーマンズ)と呼ばれ敵から恐れられました。
その後、関ヶ原では薩摩が内乱で揉めていたため少ない手勢で戦いその名を留めました。
すてがまりといわれる戦法は敵を恐れさせるには充分でした。
その後兄が上手く駆け引きした為薩摩を安堵されました。
その後、義弘の息子忠恒(家久)が島津本家の跡を継ぎました。
島津4兄弟を語る上で義弘は全てを語ることのできる人物なのでランクインさせてもらいました。

第4位 長野業正
第4位は、長野業正です。
長野業正は、上野国今の群馬県に勢力を張っていた武将でした。
業正は、上野国を武田信玄の侵攻を何度も防いだ名将です。
夜襲をしたり、奇襲をしたりさまざまな手段で撃退したようです。
業正の家来には、あの新陰流の祖で有名な
上泉伊勢守信綱がいます。
彼の弟子には、柳生雪舟斎などがいます。
業正は、主君上杉氏が衰退した後も尽くした忠君とも伝わります。
亡くなる時に、遺言でこう述べています。
「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。我が法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」
Wikipediaより
第3位 水野勝成
第3位は、水野勝成です。
勝成は、徳川家康の甥に当たります。
そして、彼は傾奇者としてもとても有名です。
父の部下を自分の行いが悪いのを父に告げ口をしたとして、キレて殺してしまい勘当されてしまいます。
そして、出奔して諸国を放浪することになりました。
そして、ヤクザ者と交わり多くの人を殺してしまいます。
その後、豊臣秀吉から知行を受けるもそれを捨ててまたもや逃げ秀吉から刺客を向けられる出来事もありました。
その後も、様々な武将の家来を転々としていきます。
気に入らない事があったらすぐに転職する武将でした。
しかし、家康の仲介で父と和解する事ができました。
それも束の間、父・忠重が関ヶ原の戦いの折宴席で殺害されてしまいます。
こうして、水野家の当主となった勝成は関ヶ原の戦いで東軍として勝利に貢献しました。
そして、父の仇も討ち果たします。
その後、明智光秀が名乗ってその後忌み嫌われていた日向守を名乗ります。
その時、勝成は笑い飛ばし逆にその名を欲したと伝わります。
そして、大坂の陣では真田幸村や明石全登など名将たちを破り戦功をあげます。
彼は、戦にとても強い名将だったのです。
その後、備後福山に10万石を与えられ現在の福山市の礎を築きました。
75歳の時に、島原の乱が起きますがそこでも勝成は従軍し戦勲をあげます。
そして、88歳という長寿を持ってこの世を去ります。
彼の凄いところは、ただ戦に強いだけでなく今なお福山において藩祖として敬われている程の政治力も誇っていたところです。
福山市は、現在人口が46万人を超える中核市ですがその基礎を築いた人物なのですからただ者ではありませんね。
この人の大河ドラマは、波乱に満ちた面白いものになることは間違いないはずです❗️

第2位 甲斐宗運
第2位は、甲斐宗運です。
甲斐宗運は、九州阿蘇氏の家臣です。
阿蘇氏は、肥後国今の熊本県の阿蘇神社の大宮司でした。
甲斐氏は、その重臣として代々仕えてきました。
しかし、阿蘇氏は肥後国では小さな勢力である事もあり名門ではありますがその家を守るために苦労します。
宗運は、そんな阿蘇氏を生涯かけて支え守り抜きます。
外交では、大友氏に従い近隣の相良氏などと同盟関係を築きます。
だけどこの時代、島津氏の侵攻が盛んになり阿蘇氏もその勢いに劣勢に立たされてきます。
そんな中、島津氏に降り阿蘇氏を滅ぼそうという勢力が出てきます。
なんとその中に、宗運の息子4人が含まれていました。
これは、謀反に当たると何と宗運は二男三男を殺害し、四男は追放されました。
それとは別に、長男も龍造寺氏に付く計画を持っていたのでこれを討とうとします。
しかし流石に、長男は助命嘆願が出たので命は救われましたが家を守るために自分の息子でさえも殺すという凄まじさです。
その後、主家大友氏が衰え見切りをつけ新たに龍造寺氏に付きます。
そんな中、同盟関係にあり親友だった相良義陽が島津氏の軍門に下り敵対関係となります。
相良氏も小さな勢力であったため、家を保つために大きな勢力につく必要があったのです。
その為、義陽はあえて盟友宗運との戦いにわざと負けるための陣を敷き戦死しました。
その首を見た宗運は、号泣したそうです。

我が友、義陽は島津とワシの双方の顔を命を懸けて建てたのじゃ
しかし、相良氏との協力なくして家を保つのが難しかったのでこの戦いは阿蘇氏の危機を招きます。
その為、島津氏と和睦しますが無理難題を押し付けられ、不調に終わり島津氏の強さを知る宗運は、こちらから戦を仕掛けるなと長男に訓示します。
その理由は、戦国の終わりを予感し島津氏をも超える大勢力が出る事を見越した為と言われています。
先を見る目もあったんです!
そして、その波乱の生涯を終えますが、その死は、孫娘による毒殺とも言われています。
しかし、宗運死後その訓示を破った長男は島津氏をこちらから攻めてしまい阿蘇氏は滅亡してしまいます。
まさに、主家を守るために鬼と化した男の波乱の一生。
この知られざる名将の一生を是非大河ドラマ化して欲しいです!

第1位 立花宗茂
そして、堂々の第1位は
立花宗茂です❗️
立花宗茂は、筑後国今の福岡県南部の武将です。
宗茂は、大友氏の家臣高橋紹運の息子でした。
そして、立花道雪に請われてその養子となり道雪の娘、誾千代と結婚します。

誾千代は気が強く、プライドの高い女性だったのでワシとは合わなかったんじゃ
立花道雪と高橋紹運は、斜陽の大友氏を支えた名将として有名です。
しかし、道雪死後島津氏の猛攻に大友氏は風前の灯となっていきます。
高橋紹運は、そんな中でも大友氏に尽くし息子宗茂を救う為、籠城し時間稼ぎを行い壮絶な討死をします。
その時、宗茂は奇襲を行い島津氏に大打撃を与えます。
その後、豊臣秀吉の九州征伐により大友氏は救われ立花宗茂は、豊臣秀吉の直臣となり柳河に13万石を与えられます。

柳河は、今の柳川市のことじゃ
この記事では、ワシのいた頃の柳河で表記を統一するぞ
秀吉から東の本多忠勝西の立花宗茂東西無双と言われる位の名将に成長しました。
そして、文禄慶長の役では少ない兵で大軍を打ち破る大活躍をしました。
そして、関ヶ原の戦いでは勝ち負け関係なく、恩を受けた秀吉に報いるべく西軍に与し大津城を攻めます。
そこで、第6位に紹介した京極高次の思わぬ抵抗に遭い攻略が遅れ関ヶ原本戦に間に合いませんでした。
しかし、宗茂は落城の折に高次の助命に動きその厚情に感動した高次は開城を決意したエピソードがあります。
その後大坂へ赴き徹底抗戦を訴えるも退けられ領国柳河へ帰国します。
その時、偶然同じ船に同じく西軍に参加して敗れて帰国する島津義弘と遭遇します。
島津義弘は実父・高橋紹運を殺した仇です。
家臣たちは、口々に「今こそ仇を討ち果たす好機です。島津を討ちましょう」と言いました。
しかし、宗茂は

敗軍を討つは、武家の誉にあらず
とそれを拒否し、むしろ島津の兵の護衛を申し出て友誼を結びました。
島津は関ヶ原の戦いでもともと2000人しか連れていっていない上に本戦でかなりの兵を失い傷ついていました。それに対して立花宗茂の兵はほぼ無傷でした。
こうして帰国した宗茂を待っていたのは、東軍による柳河への攻撃でした。
黒田如水と加藤清正に率いられた九州の東軍はその勢いを更に強めて、柳河に攻め入りました。
そして、当初西軍に付いていた鍋島勝茂が東軍へ寝返り点数を稼ぐために隣国の宗茂がいる柳河へ30000の大軍を持って攻めてきます。
多勢に無勢、宗茂も必死で抵抗しますが黒田如水や加藤清正の説得もあり敗れ開城します。
こうして、関ヶ原に敗れた宗茂は改易されてしまいました。
彼の器量を惜しみ加藤清正などが仕官を申し出ますが、宗茂はそれを謝絶して十時摂津や由布雪下など付き従う家臣たちを連れて放浪の旅に出ます。
そんな折、別居状態にあった妻・誾千代が34歳の若さでこの世を去ります。
夫婦仲が悪かった2人でしたが、後年宗茂は誾千代のことを弔うために寺を建てました。
その後、東の無双こと本多忠勝からの計らいで江戸へ上ります。
そして、事件が起こります。
江戸で日銭を稼ぐ為に虚無僧に扮して托鉢している時、町外れで3人の暴漢に襲われた。十時連貞は、ここで戦えば宗茂に迷惑がかかると考えて逃げたが、暴漢は執拗に追跡した。そのためにやむなく応戦して、十時連貞は尺八で暴漢の刀を受け止めたうえ、その刀を奪い取って3人を斬り殺した。後にこれが問題となって役人に捕らえられ、正直に事の次第を役人に話した。虚無僧の正体が、今は浪人の身分とはいえ、かつての大名、立花宗茂の重臣だった為、聴取をした役人が処遇に苦慮する。話は次々と上役に話が上がっていき、ついに江戸幕府老中土井利勝の耳に入る事になる。老中土井利勝は、無罪放免との沙汰を出し解き放った
Wikipediaより引用
十時摂津の起こしたこの事件から立花宗茂の所在が分かり、徳川家康から再び召し出されます。

この事件より前に家康公から
ワシは評価されていたようで
召し出されることは決まっていたようじゃ
まず、1604年に御書院番頭(将軍を守る親衛隊の隊長)そして、二代将軍徳川秀忠の御伽衆に召し出され、2年後には奥州棚倉一万石の大名に返り咲きました。
家康は、宗茂の性格をよく知っていて恩を売ればそれに報いる男だということを理解していました。
そして、来たるべく豊臣氏との戦いにおいて敵に回すと非常に厄介なので先に厚情をもって接して味方につけておこうという気持ちもありました。
その結果、宗茂は大坂の役で徳川方として獅子奮迅の活躍をします。
そして、ついに1620年旧領の柳河へ11万石にて復帰を果たします。
関ヶ原の戦いで西軍についた大名で、一度改易されながら旧領へ復帰した大名は宗茂が唯一となります。
その後、戦国を生き抜いた生き字引として将軍秀忠、そして家光のそばに仕え島原の乱まで戦い続けます。
そして、1642年に76歳にて天寿を全うし波乱の人生の幕を下ろしました。
柳河では、宗茂は大変慕われていて改易になった時に領民は涙ながらに見送ったと伝わります。
そして、関ヶ原後に生まれた子供たちも宗茂の事績を知っていたというくらいに慕われていました。
その、立花宗茂の子孫は柳川にて料亭御花を営んでいます。

今回は僕の完全なる主観で選んだ大河ドラマにして欲しい人物ベスト10を戦国武将から選んでみました❗️
中には、あまり知られていない人物もいてこの記事で初めて知った人物もいたかも知れません。
そして、第一位の立花宗茂はその人生が波瀾万丈そして最後はハッピーエンドで終わるところもポイントが高いと思います。
今回の記事で、新たな発見をしてもらえたら嬉しいですね😊
それではごきげんよう😆😆😆
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