こんにちは‼︎プロ野球観戦歴並びにタイガースファン歴40年のbadass tigerです‼︎
昨日は、雨で中止になりました。
そして、今日明日も天気が微妙ですね。
試合もありませんし、最近重い記事ばかり書いていたのでたまにはゆる〜い記事を書いていこうと思います。
おじさんの昔話に今回は、付き合っていただきたいと思います。
タイガースは、30年ほど前に「暗黒時代」と呼ばれる時代がありました。
だから僕は、その頃と比べたらマシだと言い聞かせて観戦するように心がけています。
現実逃避ですけど💦
そんな暗黒時代ですが、1987年に最下位になってから2003年に優勝するまでの16年間のうち4位以下のいわゆるBクラスになったのが何と15回‼︎
そして最下位は何と10回を数えます‼︎
圧倒的な弱さを誇っていました‼︎
今のタイガース打線なんかかわいいくらいに圧倒的に打てませんでした‼︎
そのような中、僕たちタイガースファンは何を楽しみに観戦していたか?
それは、「和田の打率‼︎」
あの時代、現在2軍の監督である和田豊さんの打撃を楽しみに観戦していたのです。
どうせ、試合は3試合に2試合は負けていた時代です。
今日は、和田豊さんの話を中心に暗黒時代の事を振り返って、現実逃避したいと思います…
ちなみに、僕は背番号6といえば金本知憲さんより和田豊さんのイメージなんですよ(笑)

阪神タイガース 缶バッジ(背番号)#86 和田豊ファーム監督
日本一からわずか2年で最下位転落
阪神タイガースが日本一になったのが1985年のことです。
そこからわずか2年で最下位に転落してしまうのです。
しかも、その成績は当時130試合制でたったの41勝‼︎
その勝率は331という散々たるものでした。
5位の大洋ホエールズ(現DeNAベイスターズ)に15ゲーム差をつけられる散々たる成績でした。
日本一のメンバーは、ほぼ残っていた中でこのような成績で当時の吉田監督は解任されました。
タイガースが転落した最大の要因は、4番打者の掛布雅之さんが故障したことです。
前年の1986年に左手首を死球により骨折したことにより打撃を崩し、その後は故障がちとなり急激に衰えたのです。
掛布さんは翌年の1988年に惜しまれつつ現役を引退します。
打撃の柱を失ったタイガースは、史上最高の助っ人・バース選手が活躍しますがその他の選手が振るわずに苦戦します。
岡田監督、当時の岡田選手も特に責任感が強すぎ力みすぎて成績が上がらなくなります。
元々、投手陣は非常に弱かったので打てない上に失点が多く敗戦を重ねていくことになります。
その結果が、日本一の2年後の歴史的な最下位に繋がったのです。
そして、タイガース立て直しのために監督に就任したのが2代目ミスタータイガース・村山実さんでした。
村山監督に見出された「少年隊」
村山実さんは、タイガースのエースとして長年支えてきた大投手です。
全身を使って、鬼気迫る投球をしたことから「ザドベック投法」と呼ばれました。
村山実さんが付けていた背番号11は永久欠番となっています。
そんな村山監督は、若手選手の抜擢を試みます。
特に、和田豊選手、大野久選手、中野佐資選手は「少年隊」と呼ばれ積極的に起用されました。
(ちなみに、中野佐資選手と現役の中野拓夢選手とはなんのつながりもありません。)
しかしながら、バース選手の息子さんが病に倒れ、帰国したことから退団騒動につながりました。
そして、球団とパース選手側の板挟みとなり精神的に病んでしまった球団代表の自殺という痛ましい出来事につながりました。
バース選手が退団したことから打線の軸を失い、チームは更に低迷します。
バース選手の代わりに獲得したジョーンズ選手も機能しませんでした。
その後、長きにわたりタイガースの外国人野手にバース選手の幻影を追うことになります。
しかし、バース選手のようないい選手は現れる事はありませんでした。
暗黒時代、助っ人のトホホな話については今後また記事にしたいと思います。
この年も、タイガースは52勝83敗5分の成績で最下位に沈みます。
結局、村山監督の3年間で2度の最下位と5位が一回と成績は全く奮いませんでした。
しかし、そのような中から少年隊の3選手は躍動します。
大野選手は、俊足を生かした盗塁で魅せました。
中野選手は、死球が多かったのですがそれに怯まないガッツのあるプレーが魅力でパンチ力もありました‼︎
ちなみに、僕は当時中野選手の大ファンで当時背番号0を付けていたのですが、背番号にちなんだ0が付くものをたくさん集めていました‼︎
そして、和田豊選手はショートのレギュラーをつかみその後長きにわたりタイガースを支える選手となるのです。
村山監督は、成績は残せませんでしたが和田豊という才能を残してくれたのです。
低迷するタイガースの唯一の希望・和田豊
和田豊さんの選手時代の特徴は、右打ちの上手さです‼︎
右打者の和田さんですが、ライトへおっつけるバッティングは天下一品でした。
そして、バントがとても上手く当時の日本記録を更新したこともあります。
足も速く、守りも堅実でした。
足が故障気味になった後年は、主にセカンドを守っていました。
とにかく、粘り強く右打ちのスペシャリスト。
そして、毎年安定した成績を残せるタイガース唯一の選手でした。
そして、我々ファンの唯一の希望が和田選手の打席だったのです。
とはいえ、和田選手にはホームランを打つ力はなく、ひたすら芸術的なライト前ヒットを見ては大喜びをするそんな日々でした。
2番打者として、時には1番打者として淡々と自分の仕事をこなしていく和田選手はとてもメンタルが強い選手でした。
周りがいくら打たなくても、和田選手は自分のやるべきことを淡々とこなして結果を出していたのです。
当時のファンは、和田の打率と阪神の勝率どちらが上になるのだろうか?
と密かに比べてしまうのが癖になっていました…
そのくらい当時のタイガースは、弱かったのです。
和田豊さんの現役時代が、ちょうど暗黒時代全般と重なります。
Aクラスが1992年の2位の一回だけ、最下位は10度を数えるという圧倒的な弱さを誇っていました。
唯一Aクラスになった1992年についてはまたおいおい語りたいと思います。
この年の事だけで、ひと記事が余裕で書けてしまいますので…
日本一を支えた、岡田、真弓の衰えが顕著になっていく中で、和田豊選手がタイガースの中心となりチームを支えていくことになります。
そんな中、ヤクルトスワローズを強いチームにしたあの名将・野村克也さんがタイガースの監督に就任します。
そんな中、和田選手は「監督が変わっても僕たちは変わらない」と発言して野村監督を失望させています。
野村克也が監督に就任した際の「僕たちは変わらない」という発言で野村から激しく叱責を受けているが、これは野村の野球を受け入れないという否定的なニュアンスではなく「別にサッカーをやるのではなく、我々はこれまでと変わらず野球をやるのだから、これほどのチャンスを生かさない手はない」という、むしろ野村の就任は歓迎するニュアンスの言葉であった。また、野村の監督就任にあたって、「難しいデータにしばられるのではないか」「スコアラーなども仕事が増えて大変になるのではないか」という不安の声も上がっていたチーム内に対する言葉でもあったが、マスコミ報道によって正反対の意味に捉われてしまい起きてしまった騒動であった
Wikipediaより引用
和田さんは監督が変わっても、野球をやることには変わらないのだからいい監督さんが来てくれて成績が上がる。
と前向きに発言したはずですがおそらくマスコミに言葉を切って伝えられたのでしょう。
そういう、マスコミのずるさもタイガースを低迷させた理由の一つでしょう。
これは、今のタイガースも苦しんでいてマスコミとどう付き合うかが未だに課題となっているのです。
余談はさておき、野村監督時代の3年間は全て最下位と苦しみました。
そして、2001年に野村監督の退任と共に現役を引退しました。
職人肌で、右打ちの名手。
17年の現役時代で、積み重ねたヒットは1739本でそのうちホームランはたったの29本でした。
タイガースの弱い時代を支えた名選手。
未だに、あのヒッティングマーチが耳に残ります。
男なら命かけて ボールに喰らいつけ 行けよ行けよ和田豊 お前の出番だぜ〜 「かっ飛ばせ 和田〜」
まとめ
和田豊2軍監督の現役時代のバッティングは、今もYouTubeなどで簡単に見ることができます。
興味のある方は、是非ご覧になってみてください。
きれいに、一二塁間を割るヒットを量産しています。
とてつもなく弱かったあの頃に比べたら、現在のタイガースはとても強くて今のファンは恵まれているなと感じています。
だって、あの頃は4月でペナントレースが終了しましたからね。
野村克也監督になって6月までは楽しめるようになりましたが…
そのような中、和田豊さんがタイガース唯一の希望であり計算できる選手でした。
たまには、タイガースの過去を振り返って見るのも面白いですね。
暗黒時代は、もっとトホホなお話がたくさんあるので今後試合のない時にご紹介出来たらと思います。
ここまで、読んでいただいた読者の方おじさんの昔話に付き合っていただきありがとうございました。
オールドファンの方は、共感された方もいらっしゃるのでは?
今のタイガースがあまりに打てなく、重い雰囲気なので現実逃避の記事を書いて今はあの頃よりマシだと自分で自分を慰めた要素が1番強いかもです😅
今日から、また今のタイガースについてたっぷりと語っていきたいと思います。
今日もまた、天気が微妙ですが、甲子園に絶対的に強い伊藤将司投手がやってくれるはずです‼︎
それでは、ごきげんよう‼︎

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